その一
平成24年6月
ずっとほしかった稽古場ができました。お弟子さんを取り始めて、今年で十五年なんです。それに、三十五歳という節目の年です。いろいろ重なっている年なんです。それに合わせたわけじゃないけれど。
二十代のころからずっとほしかった。知り合いの工務店の方と、構想を練ってきました。思い続ければできると思っていました。思うだけでなく、言葉にも出してきました。「言霊」といいますよね。言葉に出すことで、その魂がはたらいて、実現させてくれると思ったのです。
話が具体化したのは二年前。平成二十二年十一月に、高山市の光記念館でリサイタルをしました。大きな踊りの会をやると、力を使い果たします。だから、次の年には踊りの会を入れなかった。舞台を作る年だと思ったんです。そうしたら翌年、東日本大震災が起きてしまった。東京で地震を体験し、津波の被害や、原発の様子を垣間見たとき、このままお稽古場を作ってもいいのかと思いました。でも、自分は舞踊家なので、自分の道はこれしかない。自分にできることは何か。やはり稽古場を作ろうと、あらためて決心したのです。
二十二年の十月、工務店に紹介された設計士さんに、こういう舞台を作りたいというイメージを話しました。翌年一月に東京へ来てもらって、僕の好きなお座敷や舞台、建物を見てもらいました。美術館やホテルも回り、すばらしい建築家の作品にも触れ、イメージを固めていきました。
自宅に隣接した土地に昨年十二月着工。今年五月二十七日に舞台開きの神事と、奉納舞踊をしました。地鎮祭でも舞台開きでも、神事が始まると決まって雷鳴がとどろいて、その後、激しい雷雨になったのです。龍神さまが守ってくださっていると、僕は思っています。
稽古場は、一階に舞台とお茶室、二階が住まいになっています。お茶室もずっとほしいと思い続けていました。なかなか品良く出来たと思います。僕には、東京・六本木にある武原はん先生のお舞台のイメージがありました。茶室を取り入れた数寄屋造りです。
完成した舞台は、ヒノキの一枚板を三十数枚並べて、奥行き二間半、幅四間。僕にはもったいない空間ですが、使いやすく、いろんなお稽古をするのに支障のない大きさです。お弟子さんたちもみんな喜んでくれています。
今までの稽古場は、普通の大広間に所作台を敷いていただけ。それに比べるとずっと広くて、踊りが大きくなる気がします。
でも、六代目尾上菊五郎のお嬢さんによると、本当は二畳くらいがいいそうなんです。お嬢さん、寺島多希子さんは、中村勘三郎さんの叔母に当たり、清元の家元、清元延寿太夫のお母さんです。
僕は、二十五歳から二十七歳の三年くらい、多希子さんの家(料亭三島)でお稽古していました。多希子さんに「ここでやりなさい」と言われて、二畳の板の間でお稽古させていただいたのです。独立してお弟子さんもいたのに、そんな狭い所でお稽古をしていました。多希子さんは、狭い場所で稽古していると、踊りが大きくなるっておっしゃいました。いろんなイメージが出てくる。狭いと、空間を突き抜けていかなければいけないという気持ちがあって、踊りが大きく見えるのかなと思います。
二十歳からお弟子を取りました。当時、師匠だった梅津流家元の梅津貴(たか)昶(あき)先生から、二十歳からお弟子をとりなさいっていわれたのです。二十歳、大人だから責任を持つためです。
お弟子さんを取るということは、人間性も教えなければいけない。お師匠さんは、踊りがうまいだけ、教えるのがうまいだけじゃ務まらない。普段の行儀や人間性など、いろんなことを教えられるのがお師匠さん。だから二十歳から弟子を取れといわれたのだと、僕は受け取っています。
新しい稽古場を、十五年間やってきたことの区切り、節目として、これから一層精進していかなければいけないと思います。二十歳の初心に戻って。
舞踊家谷口裕和さんの足跡を、聞き語りで綴ります。
聞き手、間野丈夫(元中日新聞編集局次長)
(注1)
六代目尾上菊五郎 一八八五(明治一八)年~一九四九(昭和二四)年。五代目菊五郎の長男。時代物、世話物、舞踊のすべてにすぐれた歌舞伎の名優で、初代中村吉右衛門と並び「菊吉時代」を築いた。近代的な歌舞伎リアリズムを確立し、現代歌舞伎に多大な影響を与えた。昭和二四年の没後、歌舞伎俳優として初めて文化勲章を受章。(日本アソシエーツ・20世紀日本人名事典)
(注2)
武原はん 一九〇三(明治三六)年~九八(平成一〇)年。地唄舞の名手で文化功労者。昭和二十七年から武原はん舞の会を開き、上方の地唄舞を工夫して、独自の美の世界を開いた。(講談社日本人名大辞典)